「ちょっと何言っているか分からない、っていうか、おまえはただのサラリーマンだろ!しかもアラフィフ!」というツッコミが聞こえてきたので、どういうことか説明しよう。
2年ほど前から趣味としてキックボクシングを始めて、練習していると「いつか試合してみたい」という色気が出てきたので、人生の記念に1試合だけして、勝って引退しようと目標を立てた。
しかし、教えてもらっていた先生が、講座を辞めてしまったことがきっかけになって、わたしも1年くらいブランクが空いてしまった。
とはいえ、キックボクシングのことはいつも頭のどこかにあって、自宅の和室をつぶしてサンドバック部屋にしたり、復活のときに備えて、ランニングや筋トレは継続している。
そんなキックボクシング大好き人間が、キックボクシングの歴史やエピソードを考察してみた。
意外!?キックボクシング発祥の地は日本だった!
キックボクシングが日本生まれの競技だと聞いて、意外に思う人も多いと思う。
いろいろ調べてみると、黎明期の関係者の思惑や、時代背景などが絶妙に交錯して誕生したことが分かる。
この記事では、キックボクシング黎明期の重要人物3人にフォーカスして歴史をひもといていく。
1人目:日本初!天下一武道会を開催したキックボクシング生みの親
プロボクサーの父を持ち、プロモーターとして活躍していた野口修だが、とある事情によりボクシング業界を去ることとなった。
その後、1966年に日本キックボクシング協会を設立。同年、空手家やボクサーなど、立ち技の猛者を集めて、大阪府立体育館で最初の興行を行った。
以降、キックボクシングの人気は全国区となっていく。
この流れが、後のK-1、プライド、ライジンにつながっていると考えると、まさに日本プロ格闘技の源流を作った男と言える。
この歴史的な天下一武道会開催のきっかけとなったのは、当時ボクシングのプロモーターとしてタイへ行っていた野口修が、世界最強の格闘技と言われていた「ムエタイ」を知ったことから始まった。
プロモーターとしての嗅覚で「空手vsムエタイ」は儲かると考えた。そして、1964年、タイのバンコクで「ムエタイVS極真空手(大山道場)」で3対3の対抗戦を成功させた。
結果は2勝1敗で極真空手の勝利となった。
ちなみに大山道場とは、もちろん極真空手創始者である大山倍達の道場であり、信念である「空手こそ地上最強」を見事に体現することができた。
2人目:「真空飛び膝蹴り」で一世を風靡した昭和の国民的ヒーロー
「キックの鬼」と呼ばれて、国民的な人気を誇ったキックボクサー、沢村忠。
デビュー戦は、あの日本初の天下一武道会、野口修が手掛けた1996年の大阪府立体育会館。
野口修によって、キックボクシング界に導かれた沢村忠は絶大な人気を獲得した。
天下一武道会以降は、圧巻のサクセスストーリー。
- 1968年にキックボクシングのテレビ中継開始
- 1969年に「少年画報」で沢村の半生を描いた漫画「キックの鬼」の連載開始
- 1970年に「キックの鬼」のアニメ放送が始まり、視聴率は毎回30%越えとなり、誰もが認める国民的ヒーローとなった。
沢村忠の経歴
- 幼少期から剛柔流空手を習うが、将来は役者を目指していた
- 高校卒業後、映画会社の大映に入社
- 研修で日大芸術学部映画課へ入学。脚本を執筆しドラマに採用されることもあった
- 大学では剛柔流空手部に入部。全日本学生空手道選手権で優勝したり、60戦無敗の無双ぶり
数年間続いたキックボクシングブームを巻き起こした。
しかし、生涯戦績「232勝(228KO)5敗4分け」という、あり得ない戦歴からも分かる通り、多くの試合がフェイクだったと言われている。
とはいえ、当然ながらとても強かったことは、当時のスパーリング相手の証言からも明らかだ。
怪我による長期離脱があっては、予定通り興行できないという、プロレス的な側面もあったのだろう。
3人目:生まれるのが早すぎた天才!日本のブルースリーは格闘技の未来を見ていた
1966年の天下一武道会の開催に向けて、野口修に協力していたのが空手家の山田辰雄。
- 日本拳法空手道の生みの親
- 柔術家の父から柔術の英才教育を受けていた
- 日本で最初に「グローブ着用・防具なし」で、直接打撃制試合を実施
- フルコンタクト空手やキックボクシング誕生に大きく貢献
- 1967年62歳の若さで他界
- 空手の実戦性を追究しつづけた
前述の1964年にタイのバンコクで行われた「ムエタイVS極真空手(大山道場)」は、実は山田辰雄の日本拳法空手道にオファーされていたが、ルールの問題で折り合いがつかなかった。
なぜなら野口は「ムエタイVS空手」をやりたいのに、山田は絞め技や関節技もやりたいと主張していたからだ。
これはまさに、現代でいう総合格闘技(MMA)そのもの。父親から教わった柔術は、戦場で馬も刀も槍もなくなったときの「やるかやられるか」という命を懸けたケンカが原型だった。
生粋の格闘家だった山田辰雄に対して、ビジネス的な側面を重んじる野口修。
二人の関係に亀裂が入ることは必然だったのかもしれない。
当時の空手では考えられなかったグローブをはめての顔面打ちや、外国人との他流試合など、当時はかなりぶっ飛んだ存在だったに違いない。
もし1964年の「ムエタイVS空手」のオファーを断っていなかったら、日本の格闘技はどうなっていたのだろう。
まとめ
わたしはキックボクシングだけではなく、格闘技全般が好きだ。
もともと小学生のプロレス好きから始まって、UWF、K-1、プライド、UFC、RIZINまで、この年になるまでずっと追っかけてきた。
とはいえ、ずっと追っかけていただけで、自分がやることはなかった。
何となく頭の片隅に「やってみたいなぁ」という気持ちはあったが、きっかけがなくてあっという間におっさんになった。
そんなおっさんが長年の夢であったキックボクシングを始めたきっかけはダイエット。
まあ、よくあるパターンだが、夕食抜きダイエットに限界を感じたのと、ただスポーツジムに通ってマッチョ化するよりは、好きなこと、興味あることをやりながらダイエットできれば最高だと思ったから。
そんな話をランチのときに同僚に話したら教えてくれたのがストアカというサービス。
わたしはキックボクシングだったが、ストアカには、ビジネス、スポーツ、趣味など多種多様な習い事がたくさんある。
「自分の得意」を販売している個人がたくさんいるので、ぜひホームページをチェックしてほしい。
余生を幸せに過ごしたいなら、人生の忘れ物を取りに行くことをおすすめする。